「違い」を必要とするまでもない、ただの「個」として感じあうこと
東京は、とても多くの人がいる。
多くの人がいるから、「自分と同じような人」も、たくさんいる。
同じような人がたくさんいる中で、自分を知ってもらったり、自分を選んでもらおうと思ったら、自分を目立たせるか、目立っている者を落とすかして、「違い」を見せつける努力をしなくてはいけない。
会って、話して、触れ合えば、ひとりひとりの違いがわかるのだとしても、多くの人がいる中で、一人一人に会うこと自体が困難だから、多くの人がいる中で「ただ等身大でいる」ということは、とても難しいことになってしまっている。
この世のすべてが、2つと同じもののない唯一無二の存在で、この世の誰もが、誰一人として同じ人のいない唯一無二の存在なのに、多くの人がいる、というだけで、同じようなという「属性」のカテゴリーが生まれ
人を、「わたし」や「あなた」ではなく
30代、40代
女性、男性
子供あり、なし
会社員、自営業・・・
いろーんな「カテゴリー」で分類し、認知せざるを得ない。
そうしたカテゴリー分けが、どんどん、どんどん進んで、私たち一人一人を、「違い」を必要とするまでもない、ただの「個」として感じあうことを、本当に困難にしている。
【もしも世界が100人の村だったら】という捉え方を、昔、見聞きしたことがあるけれど、今いる群馬・中之条で少しずついろんな人に会いながら、そっか、私が感じていることは100人村が伝えたかったことなのかも、と思ってる。
11月から、中之条で出会えた人は、誰一人として、同じ人がいない。
その人だけの生きてきた時間があって その人だけの苦く甘いドラマがあって
年齢、職業、家族構成・・・そうしたものは、その時間、そのドラマの一幕を担う「演出」でしかなくて
私たちは誰もが今という一幕を、生きていて
過去がこうだったらかならずこうなると決まっている物事は、何もない
今、知り合えた人や出会えた物事と、新しい化学反応が、いつでも「今」、始まっていく。
そんなことを今、過疎の町・中之条で感じている。
たくさんありすぎるから見えない、一つ一つの、大切なこと。
今夜、東京へ戻ります。
運転のために仮眠をとっている宏さんの小さな寝息と、穏やかなピアノの音で奏でられるクリスマスソングを聴きながら、「わたし」が「わたしに還る」こうした時間が、なにかに響くといいなあと感じています。