そこになっている実を食べる
ここ八ヶ岳には、農耕が始まる前の縄文の時代から、人が住んでいた記録がある。
そんな昔から人が生きていた八ヶ岳で、今一度、食べることと、その食べ物はどうやって手に入れてきたのか?について、考えている。
生命の泉である「水」は、八ヶ岳では「森の中」にある。
その森の中で、米よりも、肉よりも、魚よりも、原初から身近にあった「食べられるもの」は、フルーツやナッツ(そこになっている実)だったんだと思う。
わたしも縄文人たちと同じように「そこになっている実を食べる」をしてみたい!
が、野生を探す力は、まだない(笑)
よって今朝は、完全無農薬で様々なベリーを育てている清水さんのところに伺い、カシス、ブルーベリーなどを、食べたいだけ、摘んで食べさせてもらった。
甘い〜美味しい〜というのはもちろんだけど
生きたものを、生きたまま口にする感じ。
「新鮮」という言葉すら陳腐に思える、
その感じ、なんて言ったらいいんだろう。
食べるって、
「そこにある生命エネルギー」を取り込むことでしょ?って
それ以上に重要なことなど、いったい何があるの!?って
今は、シンプルに、感じてる。
食べるということは、本来、そんなに難しいことじゃなかったんじゃない?
なぜ難しくなってしまったの?
それはね、人間が「そこにある食べられる物」を破壊してきたから、「そこに食べられる物」がなくなってしまったんだよ
それからね、人間はいつからか「そこにある食べられる物」よりも「いい食べ物」があると、頭で考えるようになったんだよ
そしてね、人間は農耕を生み出したおかげで「貯蔵」ができるようになったんだけど
でも「貯蔵できない不安」も一緒に、抱えるようになったんだよ
この3つの仮説を、できる限り自分の感覚で、確かめてみたいと思ってる。
暑い中での作業だったので、清水さんがスムージー作ってくれた。
人による手間の愛が入ったものは、それはまた格別の幸せ。
写真とってもいいですか?と聞いたら、「魂抜かれちゃうな」と笑ってらした。
この顔をみたら、ブルーベリーに詰まった「愛」は、想像に難くないよね♡