【 魂を想う 】
昨日おこなったセッションの中で
深い思いを抱いたことがありました。
ちょうど昨日の記事にいただいたコメントとも
すこし重なる部分があるので
今日はそのことについて
書かせてもらおうとおもいます。
わたしは、9歳の夏に、
祖父の自死を経験しました。
以来ずっと、
「死」への大きな恐れがあります。
18歳で自分がうつと診断されたとき
示された向精神薬を迷わず飲んだのも
そのためです。
それまでに抱えていた死への恐怖が
自分の容量を超えてしまっていました。
そして、
それに向き合うこともなかなかできず、
12年半、向精神薬を飲みました。
そんなわたしが、
なぜ治療家になろうと思うのか、
自分でもずっと考えてきました。
わたしは、治療家ほど
「死」を恐れているひとは
いないのではないかと思っています。
死を恐れるからこそ、
なんとか死を避けようとし
いのちを救おうとするのではないかと。
それでも、いのちには
かならず死が訪れます。
もっとも直面したくないその現実を
なんどもなんども突きつけられる。
それに向き合う中で治療家は、
自身の恐れを乗り越えていくのではないかと
おもいます。
わたしは医療を学ぶようになってから
いのちの中に、
魂というものを想うようになりました。
魂、つまり、死なないいのちがあると。
死とは、肉体を離れることであって
いのち(魂)は、ただ、
肉体から抜けていくだけなのだと。
これが、本当かどうかはわかりません。
でもわたしは、知っています。
自分には、それを想うことが
目の前の現実を解釈するのに
必要なプロセスであることを。
わたしはずっと思ってきました。
わたしが感じることができるのは、
脈を打って、体温を持っている
「生命」でした。
実際に、口が動いて、目が動いて
そうしてわたしを見てくれるから
そこに「いのち」を感じられるのです。
そこに「愛」を感じられるのです。
だから愛するその生命が、
病気になったり
死に直面しつつあると思えば
どうしようもなく、怖く、苦しい。
いのちがどう、魂がどうなんて
ことばでは言えても、
実際、目の前の生命に
暖かさを感じられるかどうか
それが、わたしにとってのいのちなんだ、と
ずっとわたしも思ってきました。
いまでもまだ
わたしはこの思いの中で
右へ左へ、揺れています。
だから、
それに向き合う方々の声を聞くことは
実は、とても苦しい。
同じような「思い」を知っているからです。
でも、昨日のセッションのあと、
聞いてくれてありがとう、という
感謝の言葉をもらいました。
わたしはここに、
自分ができることを想います。
ひとは、ひとに癒される。
同じような「思い」を持ったひとに癒される。
「共感」とよばれる癒しです。
どんなに優れた治療家も
いのちを操作することは、
きっと、できません。
生も、死も、病の治癒も、
いのちだけが行えること。
だから医療は、ひとつのアプローチ。
刺激を与えるアプローチ。
いのちは、すべてを備えて生まれてくる。
そのいのちを、信頼すること。
わたしがこう声にするのは、
いつも自分自身に
言うためかもしれません。