【事実と主観の違いを知る~弱者マインドに気づいたきっかけ②】
「”それ”は在る」という本を、ご存知ですか?
「超えて 超えて さらに超えていく
卒業するものよ さあこの手を取りなさい」
という言葉ではじまるこの本は
【探求者】と【ある御方(師)】という
ふたりの問答の形をとりながら
「この世の真実を知りたい」という「欲」に
「ただ”在る”だけ」という「真実」を
言葉を変え、例えを変え、示し続けていきます
わたしがこの本を手にしたのは
2013年の末~2014年の春頃だったと思います
わかる気がするけど、わかっていないかも、という「思考」と
わからないけど、わかっていたい、という「欲」を
感じていました
もちろんそれが「思考」であり「欲」であることは
その時はわからなかったけれど
「理解したい!したい!」と望んでも
できる類のものでないのだろうなあということと
必要であれば「理解はいずれやってくる」であろうことは
なんとなく感じていました
その本をふいに読み返したのは、2015年の春
「目の奥を遠くから吹いてきた風が通り過ぎていく感じ」と言ったらいいか
「耳の奥で懐かしい昔話を聞いている感じ」と言ったらいいか
なんとも形容しがたいのだけれど
並べられた言葉たちが
「文字」や「言葉」ではなく
「音」や「景色」として、そこに在り
あ~理解って
思考(頭)で「手に入れるもの」ではなく
感覚(肚)に「おちてくるもの」なんだなぁと感じていました
時が日々を流れ
ある日、わたしの尊敬るする先人が
「事実と主観の違い」について話すのを聞きました
たとえば【5月7日、気温20度】という
一応の客観的事実があるとして
「初夏、20度です」と【客観的事実】として言うのと
「あ”ー暑いー!」「ったく暑苦しい!」
「ふ~涼し~」「寒っ」「凍えそう…」
「気持ちいい~」「1年で1番好きな時期~」など
【自分だけが感じている主観】として表現するのとの違い
それを聞いて、
そっか、わたしがあの本で理解したことは、
現実的にはひとつ、こういう風に現れるのかも、と
以来、自分の身の回りに起こる具体的になことに
「事実と主観の違い」を当てはめて
思いを巡らせることが始まりました
そうしたら
自分の心の中もそうだし
人々の話す「言葉」もそう
わたしたちの会話の多くが
形容詞や形容動詞、副詞によって成り立っていることに
気がついていきました
すごい、少し、すごく、本当に、まったく、全然、
ずっと、すぐに、ありえない、信じられない、死にそうなほど
いい、悪い、正しい、間違い、大きい、小さい、強い、弱い
大変、辛い、苦しい、楽しい、嬉しい、幸せetc…
これらがぜーんぶ
わたしがあの本で感じた「遠く懐かしい音や景色」ではなく
いま、目の前にある(と感じる)出来事への
「慌ただしく騒がしい思考や感情の動き」だったり
それらを「記憶と結びつけて強調したもの」に見え始めたとき、
ああ、なるほどー
わたしもひとも
これを楽しみ、
また、ここに苦しむんだなあって
そっか、ひとの「命」であり「壁」でもあるものは
どうやらここにあるっぽいなぁと
感じはじめていきました
長くなりました!
続記事へ続きます
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